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Les femmes et les enfants d’abord
 −「抽象の力」展をめぐる討議


 抽象絵画の出現の歴史的な淵源の調査の試みとして、1936年にアルフレッド・バー・Jr.によって企画された「キュビスムと抽象と抽象美術」(ニューヨーク近代美術館)は、この展覧会のカタログが掲げる系譜学的な海図とともによく知られているばかりか、この試みが近代芸術の進化論的な歴史的整合性の保証として機能しえた時代が存在したことも事実だ。そして、この同じニューヨーク近代美術館が2012年に開催した「抽象を発明すること、1910-1925」展は、そのカタログの最終章をバーによるこの企画の再検討に割いているとはいえ、また、数多くの寄稿者たちによる綿密な文章を含むとはいえ、その基本的な枠組みはバーの企図から大きく逸脱するわけではない。たしかに、ラバンやヴィグマンといったダンサーのコレオグラフィーやハンス・リヒターの映画作品などへの言及を含むという点で、バーの図式はさらに精緻化されたといっても過言ではない。それは表紙の扉に記載された新たな海図からも明らかである(とはいえ、今回のカタログでは、あたかも歴史的整合性への批判を事前に回避するかのように、年号の記述は周到に排除され、芸術家たちの名前を結ぶ錯綜とした線が描かれているにすぎない)。
 この充実した展示とカタログが結局はバーの企画の精緻化と補足によって成立しているとすれば、この1936年の展示が内包した論理的な転倒はまったく解消されていないことに帰結しはしないだろうか。では、この思考の枠組みを拘束する認識論的な障害は何によって構成されるのだろうか。そこで、この文脈で、「カフカとその先駆者たち」のボルヘスの思考へと迂回してみることにしよう。ボルヘスが様々なテクストで一貫して、われわれの時間意識の倒錯を批判的に検討しているように、このごく短い文章において、きわめて明確に、カフカは自らの先駆者たちを発明したという命題を提示している。また、カフカに限らず、「各々の作家は自らの先駆者を作りだす」という定式は影響関係をめぐる不毛な議論を偽の問題として斥けることになるだろう。そして、この命題はMoMAにおける1936年の展示のみならず、2012年の展示が依拠する歴史認識をごく端的に認識論的な障害として駆逐する解毒剤として機能しうるだろう。
 では、この認識論的な障害とは何か。それは、カフカの作品群がその先駆者たちからの影響のもとに形成されたという思考の様態に他ならない。換言すれば、先駆者たちの仕事が先行し、その後に、彼らの影響のもとにカフカが登場しえたという時間序列の認識の枠組みのことである。ところが、この序列は根底的に逆転されるべきであると、われわれはボルヘスとともに強調しようではないか。カフカが登場しない限り、あるいはカフカという作家が存在しない限り、論理的にいって「カフカの先駆者たち」という概念が成立しえないという事実はあまりにも自明なことではないだろうか。カフカの登場を待って、初めてわれわれは「カフカの先駆者」を思考しえるのではないだろうか。だとすれば、当然のことながら、カフカは「カフカの先駆者たち」に対して、論理的にも時間的にも先行することになる。
 そして、MoMAの二つの展示が示すもうひとつの転倒は、抽象の系譜を概観するほとんどの著作に共有されている転倒でもあるが、抽象の出現を一種の偶発的な僥倖とみなしている点である。いいかえれば、ここには矛盾した二つの操作、つまり形式的な展開という歴史化の操作と、過去の作品群との断絶の強調の操作との奇妙な接続が、この抽象の系譜の確立作業に通底する思考の枠組みを形成しているということだ。もちろん、この僥倖はカンディンスキー自身の回想的な記述での合理化が演出した事態でもあるのだが。そして、現実界の対象との視覚的参照関係を持たないという点で、非対象的ないし非視覚的な作品に抽象的という形容詞を付与しながら、これらの系譜化の作業は、つねに作品群のネットワークをタブローの対象的かつ視覚的な類縁性に依拠して構想するという点でも認識論的な倒錯以外の何ものでもない。
 それでは、今回、豊田市美術館において岡ア乾二郎によって企画立案された「抽象の力」展とは何であっただろうか。この展示企画ならびに岡ア乾二郎によって執筆された長文のテクストによって提出された視点が、抽象的という形容詞とともに指示される美術作品の従来の系譜学的な記述に決定的な断絶をもたらした点、つまり、MoMAの二つの展覧会が代表するような思考の形式を解体させるものであったという点にある。ごく簡単に要約すれば、この展示とともに発表された文章がきわめて明晰に示しているように、なぜキュビスムから抽象絵画の出現への直接的な線を引くことができないかの明確な論証の後に、抽象の問題群が何らかの個人的な僥倖による出来事ではなく、ある型の思考の論理的な展開によって、不回帰的な出来事としての抽象の出現を準備した様態を示している。この議論の中核的な部分で岡ア乾二郎は何人かの日本の芸術家の思考の運動を参照しているが、それはMoMA型の思考の枠組みの解体作業に際して、この枠組みの外部に属する者たちを顕揚することにおいて、一種のヘゲモニー闘争を仕掛けようという試みとは全く無縁である。むしろ、日本という辺境においてさえ、一群の芸術家たちの思考が抽象の問題群の理解において世界性の水準に達していたことを示し(たとえば、カンディンスキーの主著、『芸術における精神的なもの』の最初の外国語への全訳は教育学者であり、玉川学園の創設者である小原國芳によるものである)、このような思考が日本において展開したからという理由ではなく、同型の思考が欧米においてさえ、抑圧され、無視されてきたことを明晰に提示することに成功している。そして、この抑圧は2012年のMoMAの展示においてさえ未だ解除されていない事実を強調しておくことにしよう。
 また、本論文は抽象の問題群がキュビスムではなく、それ以前の芸術の制作の局面で露出した思考との関係を強調しているが、たとえば印象主義の画家たちが当然のことながらその制作において経験したように、瞬間ごとに感受する感覚的な所与を全面的に束ねることを可能にしうる単一の像を形成することの不可能性をめぐる思考の運動が抽象の出現の一つの条件を構成している。この点に関してもっとも明晰な理解を示していたのが、夏目漱石の『草枕』であり、ヴァージニア・ウルフをはじめとするブルームベリー・グループの芸術家たちや哲学者たちに他ならない。いずれにせよ、岡ア乾二郎による今回の企画が抽象の出現を何とともに描き出したかを何よりもまず強調しておくべきだろう。それは、ごく端的に、児童教育と女性作家たちが作り出した作品群、ときに《小芸術(レッサー・アート)》と分類されかねない領域と隣接した作品群である。この点で、岡ア乾二郎の記述はどのようなフェミニスト的読解よりも、また、どのような児童画、ないしアール・ブリュットをめぐる議論以上に、彼女たち、彼らの作品群の価値を正当に位置づける視野を提供することになるだろう。
 かつて自らの映画的主題をインタヴューの際に尋ねられたフランソワ・トリュフォーは、Les femmes et les enfants d’abordと答えている。「まず女性たちと子供たちを」というこの標語は、改めて指摘するまでもなく、沈みつつある船舶からの救助に際して発せられる言葉である。当然のことながら、この標語に騎士道精神の名残を認めることもできるだろうし、あるいはまた、それは男女の役割の分離を固定化するという批判の対象でもありうるだろう。それにもかかわらず、ここできわめて直截に提示された「まず女性たちと子供たちを」という発話に支えられる展示は、沈みゆく巨大な船舶(たとえばMoMAが体現するような思考の枠組み)から離脱し、もう一つ別の希望に向けて就航を開始するおびただしい小舟を、希望の徴として提示しているという事実に注目しよう。そして、「おお、磨きたてる岸辺の虹よ、船をその希望へと近づけてやってくれ」というルネ・シャールの美しい詩句が、この希望を願望法のモードでしか語りえなかったように、今回の展示もまたこの願望法のモードに支えられている。

 今回の豊田市美術館での「抽象の力」展に際して、この展覧会を企画実現した岡ア乾二郎氏をお招きし、この展覧会が提示する問題群をめぐる討議を近く開催したいと思う。開催日時は6月中旬を予定しているため、日時が現時点では確定していないが、展覧会は6月11日までなので、この段階で予告を行うことにした。多くの方々のご観覧をあらかじめお願い申し上げたい。

松浦寿夫



パネリスト

岡ア乾二郎(美術家)
松浦寿夫(画家)


日時:2017年6月21日(水) 19:00〜
場所:アートトレイスギャラリー
定員:50名
参加費:700円



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※当日開始時間にご来場いただけなかった場合、ご予約をされていても立見となる可能性がございます。申し訳ございませんが何卒ご了承ください。
※お申し込みいただいた方には、今後ART TRACEより展示、イベント等の情報を配信いたします。 (今回の参加のみご希望の方は、お申し込み時「情報配信不要」の旨をメールにご記載願います)

※本イベントは定員に達したため締め切りとさせていただきました。
ありがとうございました。